想う、書く、暮らし。

〜ぶつくさと考える毎日〜

3年間を振り返る

フランスから戻ってちょうど3年を過ぎるかな。仕事に追われて忙しない毎日を過ごすばかりで正直、思い出すことが無い。そういえば、最初の面接のときにボス(校長)から「教師は時間が無いからお金がたまるわよ!」と自慢げに言われたことを思い出すけど、まぁ、本当に貯まる。たった数年でも2年は働かないで自由に過ごすことができるくらいには。キャピキャピ系の職でも無いのでブランド物に疎いし買うことも滅多に無い。でも、お金が貯まることで自分の生活が豊かになったかどうかというと、全く思わない。朝早く行って当たり前のように定時を過ぎて帰る毎日、夜の20時以降にしかスーパーに行くことが無いので、大体品薄の棚を見てげんなりする。鶏肉を食べたい日に鶏肉コーナーを見ても、いつも割高グラム130円のささ身しか残っておらず、それを買って調理する。お風呂に入るのも時間がもったいないと思いシャワーで終わらす。そんなこんなであっという間に深夜を回り、あっという間に次の日を迎える。

 

自分なりにまぁ早く終わらそうと殺気立たせながら仕事に取り掛かるが、早く終わらせられる人にはさらに降りかかる業務。やればやるほど損する仕事。やんわり断ろうとすることもできなくは無いが、若手の私は荒波を起こす事なく職場にはいたい。今の私には断る勇気と経験が足りない。

 

この3年間、楽しかったか?と聞かれれば、「はい、楽しかったです。」とは言えるし、仕事も楽しくなかったわけではない。自分の望む仕事、目に見えて実感する子供の成長で喜べるこの仕事は本当に楽しい。同僚にも恵まれ、元気いっぱい過ぎる先生達の飲み会は盛り上がって楽しいし、同年代の同僚も多いので帰り際の職員室で日々の不平不満を吐き合い、多少の鬱憤を晴らすこともできた。

 

でも、私自身の生活は本当に豊かではなかった。朝はアラームで目覚め、仕事へ向かい、定時で帰り、品揃えのいい18時頃のスーパーで鶏のもも肉を買って食べて、お風呂に少し使ったあとにちょっと本を読んで眠る。土日は仕事の心配がないので焦ることも不安になることもなく、ちょっとピアノの稽古に行って、近くの公園を散歩した後に帰る休日。特別なことは何一つ望んで無いし、贅沢なことでもない。できないことではないのに、それができなかった。

 

肝心の語学勉強はできたのかというと、これもまた、全くできなかった。職場近くへ引っ越し、通勤時間を減らして時間を作ろうと思ったが、毎日のように21時を回る帰宅で1日13時間労働の後の勉強は難しかった。だから当然のように語学力は落ちた。毎日の積み重ねによって伸びる語学勉強は、土日にいくら長くやっても自分の伸びはあまり感じられない。

 

きっと私だけではなく、会社勤めの人も自営の人も同じような境遇の人はいるかもしれないし、もしかしたら場所によって大きく違うかもしれない。大当たり!の職場に行けたとしても、移動が必ずあるこの仕事では数年単位でしか居ることが出来ない。こんな毎日を定年の60歳まで続けるのかと考えたとき、本当にこれでいいのか、と思うようになる。

 

 

そりゃ自分の人生を考えると良くないな。なんの柵も無い今この時に、好きなことを自由にしてみるって大切だから、私はまたフランスへ行くことにしよう。

 

 

 

 

 

 

特別支援教育とインクルーシブ教育

インクルーシブ教育とは、簡単に言ってしまえば「障害がある子もない子も全員一緒に平等に教育を受けようよ!」ということ。教育の方針に関しては、大体は全国で統一されているものの、やることや考えなどは自治体によって大きく変わる。例えば、横浜や大阪なんかは東京よりもこのインクルーシブ教育に力を入れていて、通常学級に自閉症や知的障害、ダウン症と診断された子がクラスに入り、みんなと同じ教室、同じ空間で学校生活を過ごす。私は横浜育ちなので、今思えばクラスの中になかなかスムーズに話せない子がいたなとか、すぐに離席してしまうような落ち着きがない、注意欠陥多動性症候群の子がいたなとか、物をよく無くしたり、整理整頓が苦手で机の周りはいつも汚かった子がいたなとか、特別支援を専門に勉強してきただけあって自分の小学生時代を振りかえることが多い。当然、勉強してきただけなので現場の実態なども分からず、「通常学級に障害を持つ子が一緒に学び、みんなが協力し合って生活するのは素敵なことだ。」くらいにしか考えていなかった。東京と横浜の特別支援は大きく違っていることを聞いたときは、東京は特別支援の子を通常学級から離して教育するなんて、ひどいなぁ。としか思っていなかった。

 

私はとある都道府県の特別支援学級の担任になり、知的障害を持つ子たちと一緒に学校生活を過ごしてきたことがある。そもそも、その地区には全学校に特別支援学級があるのではなく、場所は限られている。特別支援学級は「自閉症・情緒障害特別支援学級」「知的固定学級」の2つの種類の学級が存在し、その子の課題に応じて所属する学級が決まる。「自閉症・情緒障害特別支援学級」とは、知的な遅れが無く、意思疎通や対人関係に課題がある子が在籍する学級で、どのような子が所属するのか簡単に言うと、「勉強はできるけど、人とのコミュニケーションがうまくいかないよ。」ということ。知的固定学級とは、子供の知的発達に遅れが見られる子が所属し、「勉強が難しく、個別の手厚いサポートで自分の「できる」を増やしていきたいよ。」というイメージである。

 

そもそも、いつ特別支援学級だの通常級だの判断されるのかというと、小学校に上がる子(5,6歳の子)が受ける就学児健診で、その子にとって通常学級、または特別支援学級がいいのか、子どもたち全員が知能検査を受けた結果から、特別支援学級の担任や管理職と相談して決める。ただ、知能検査の結果から特別支援学級の判定が出ても拒絶する保護者は非常に多く、最終的には保護者の意向が最優先されるので、1,2年生の頃は通常級で過ごすことが多い。2年生の学習で漢字や算数の学習内容が大幅にレベルアップするので、そこで大きく差が開いていき、3年生頃になると知的能力の限界を迎え、3年生の秋頃に特別支援学級へ移籍するパターンも少なくはない。もし、1年生から特別支援学級に在籍していれば、着実にできることが増え、自尊心を保てているだろう子が、3年生頃まですっと通常学級にいると周りと自分の違いに気付き始める子も増え、日々の積み重ねで「僕はできないんだ。」と、自信を無くしてしまう子も多くなる。なので、周りの大人による適切な判断が本当に本当に必要。

 

 

現在、「情緒学級」はどんどん数が少なくなってきている。それは、担任と子どもたちの負担がとてつもなく大きく、学級を保つのが困難になってきているから。「情緒学級」に所属する子は説明した通り、「対人関係に課題がある子」が集まるクラスなので、そのような子たちが集まった教室はどのようなクラスになるのかというと、毎日のように些細なことで殴り合い、噛み付くような喧嘩があちこちで勃発したと思ったら、首に縄を巻いて死のうとする子や、土を食べ始める子、椅子や机を投げて物を壊し、泣き叫び、暴れ、子供も大人も生傷が絶えないようなクラス...そんなクラスに保護者も所属させたいと思わないし、担任を持ちたいと思う先生は限りなく少ない。私はそんな「情緒学級」の担任になったことがある。

 

私が担任をしたのは、正確には「知的固定学級」なのだが、先ほど書いたように「情緒学級」は年々少なくなってきている。だから、情緒に課題がある子は行き場が無くなり、「知的固定学級」に所属することになる。そこで起こることは、情緒に課題がある子が知的に課題がある子をいいように利用し、子供の中の世界で小さな支配が始まる。例えば、ボールを取りに行くことが面倒くさいと思う情緒の子が、知的の子に持ってこさせたり、自分が好きな給食のおかずを知的の子から「交換しよう。」と自分の苦手なおかずと交換させたり、情緒の子が何か悪いことをしてしまった時に、知的の子に向かって「この子がやったんだ!」と嘘をついたりすることがある。

 

情緒と知的、それぞれに課題がある子を一緒にしてしまうとそんなデメリットがある。なので、私が持った学級は、正式には「知的固定学級」となっているものの、クラス分けでは子どもの課題や相性、性質、性格、全てを総合的に判断して分け、約40人いる知的固定学級の中でも、情緒に課題がある子たちで固められた「知的固定学級の中の情緒学級」が私の担当だった。特別支援学級の定員は8人までと全国で決まっているが、8人でも十分に多いので大体5人前後でクラス分けが行われる。

 

情緒に課題がある子は勉強ができる子も多く、通常級でみんなと一緒に勉強したいと願う子供も少なくはない。だけど、通常学級だと人との距離感が難しかったり、空気を読めない行動をしてしまうことが多く、トラブルも多くなる。その子たちに適した場が今の日本には無いように思える。知的IQの高い障害児だけを集めた私立の特別支援学校を知っているが、学費は私立大学並みに高く、どうもビジネス臭さを感じたのは否めない...。

 

この数年間、子供たちと向き合っていく中で想うことがいくつかあった。

 

インクルーシブ教育とは何だったのか。特別支援学級に所属する子の最終的な目標は「自立」である。着替えや身支度、整理・整頓などの生活全般を自分でやっていく力、自分で分からないことや出来ないことは周りの人に聞いて助けを求めたり、時間や手順、ルールを理解して係活動や当番などの与えられた仕事を最後までやっていく力をつけていき、できたこと一つ一つに自信を持ってもらうこと。なぜなら、助けてくれる身近な大人、つまり子供の両親は、当然だが子供より早く先に死ぬ。お金があれば代理人などを雇うことができるかもしれないが、全員がそういうことが出来るわけではない。だから、自分で生きていく力を身に付けていくのが大切で最優先なのだと私は思う。

 

自分のことがままならないまま、通常学級にポンと置かれてしまってはどうだろう。整理整頓が苦手でロッカーや机、その周りはいつも汚れ、給食を綺麗に食べることが難しい子は、まだ障害児などと判断がつかない子たちからするとどう見えてしまうのか。「汚い子」と、スタンプを押されてしまうかもしれない。運動が苦手な子は体育の中で振り分けられたチームの中でどのような扱いを受けるのだろうか。優しい子がいれば、フォローすることが出来るかもしれないが、幼い子供たちの心理は「勝利したい。」のであって、それがチームの最優先になってしまうことが多い。全体の授業についていけず、学習内容が何もわからないま椅子の上でぼーっとする時間は、その子にとって本当に必要な時間なのだろうか。その時間だけでも、その子に適したプリントや課題を渡してあげたいと思うし、できることを着実にしていくことで自信をつけさせていきたい。その学級担任が個別に用意し、面倒を見ることもできないことではないが、熟練の経験と知識で成り立つので多くの担任は全てが中途半端になってしまう。

 

 

もちろん、インクルーシブ教育にも大切な面はある。障害を持つ子がクラスにいることで、世の中には得意・不得意が人それぞれ違うように、個性を持った子がいるのだと考えさせることができる。そこで、協力してあげようとする気持ちが生まれてくる。でも、私が過ごしてきた小学生時代に、「インクルーシブ教育」の名のもとでお世話好き、或いはお世話が得意な子にダウン症の子を任せっぱなしにしてしまうことがあった。班や行動なども全てその女の子と一緒にさせ、女の子のかなりの負担になり、問題になったことがある。もちろん当時の担任や、その担任に助けを差し伸べなかった周りの教員たちに落ち度がある。女の子にとっては協力する力はついたかもしれないが、協力するのはその子だけでよかったのか、クラス全体で助け合いができなかったのか。安易にインクルーシブ教育の良いところだけを推し進めてしまうと、良くない結果になってしまうこともある。障害を持つ子、持たない子が自分の力を最大限発揮できる場を作ってあげ、全員が平等に、楽しい学校生活を作っていくには、学校全体が正しい判断をし、担任はよく考え、責任持って学級経営をしていかなければならないと思っているので、私は安直にインクルーシブ教育を進めたいとは考えられない。

 

通常学級の担任が全てを引き受けることもできるが、やはり膨大な時間と業務で担任自身が潰れてしまうことも少なくはない。現に私の残業時間は月80時間は超えていたし、土日も行かなければならなかったこともあるので19連勤の経験がある。もちろん、残業代は一銭も出ない。いくら子供たちが大切だからといって自分の人生がボロボロになるまで日々を犠牲にしなくてはならないのかというと、そこまでしたいとも思わない。何故なら、私自身も自分の人生は大切にしていきたいから。

 

何はともあれ、教師や周りの大人は子供たちが幸せになることを願い、そのために、世界をまだ知らない子どもたちのためにできる限りの教育と環境、子どもたちそれぞれが自分の「できる」を見つけ、自信を持って楽しく生きていくために教師は努力する。私はその子供たちそれぞれの人生の一部に関わっていくこと、そして、小学生から願い続けた教師になれたことを凄く嬉しく思う。色々な子供たちに出会えること、子供たちの「できる。」が日毎に増して目に見え実感できる場所、それが学校…。だから、教師って面白い。

 

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遠足の下見で桜をパシャリ。晴天が気持ちいい。



 

 

 

 

 

 

なぜフランスなのか

 

なぜフランスなのか。フランスに興味を持ち始めたのを言うのはこっぱずかしいけど完全に元彼の影響である。高校生の時から約4年付き合っていた彼とは当時、いつか一緒にフランスへ行けたらいいね。だなんてときめくような話をしていたのを覚えている。だからといって、今もなお未練があるのかと言ったら残念ながら全くないんです。

約4年も付き合っていたら遊び盛りの男子も、ある程度自由を得た女子も、お互いへの関心が薄れ、別れる。19歳の夏だったか。

 

元々安定志向だった私は、大学卒業後は教育公務員として働き、多くはない給料を安定してもらい、そこそこ貰えるボーナスで夏は3週間の海外旅行、春と秋は国内温泉巡り、ある程度お互いを知った男性と付き合い、結婚して出産、老後までひとっ走り。誰もが通りそうな道を小学生時代から思い続け、割と順調に進む。だからこそ、自分に与えられた自由な時間はこの大学生活にしかない…と思い、元彼に「いつか一緒にフランスへ行けたらいいね。」と言われたことを急に思い出して20歳の秋に初めての海外、初めてのフランス・パリへ一人で行った。それが、フランスに興味を持ったきっかけだった。

 

 

人生で初めて見たパリは、本当に面白かった。建てては壊されていくビルで乱立するモダンな東京と、何百年と歴史が残る建物が並ぶパリの石造りの町並みは全く違った。海外から日本に来た人にとって、キラキラした東京は魅力的に見えるのかも知れないが、やはり町の歴史の重みが違う。蚤の市という古い食器や衣服、はたまた使えるのか、使い方さえも分からないおんぼろの家電製品で溢れ返った場所を覗いてみても、モノを長く大切に使っていこうとする文化が根付いているのが伝わってきたことも興味深かった。その時までは、ただただフランスを面白いと思っただけで住みたいとは思わなかった。

 

 


 

それから2年後の大学4年。特に会社へ勤めたいとも考えていなかったので、7月に行われる教員採用試験を受ける準備をしていた。割と真面目に勉強もしていたので筆記にはある程度自信がつき、最後に模試を受けても希望の自治体受験者の中で順位は上から数番目、合格圏内の自信もつくほど頑張っていた(決して難しいわけではない)。そのまま採用試験を迎え、3つの試験のうち2つは9割は取れたであろうと安心していたところ…残り1つ…なんとマークシートを全て一つずつ、ずらして書いていた。試験数分前に問題番号が合わないことに気付いたものの焦っては書き直しを繰り返していたのを今でも鮮明に覚えている。

 

3割だった。3つの点数の合計からあと3点で落ちた。試験後、小学生でもしなさそうなミスをしてしまったことに私らしいなと納得しつつもやはり落ち込み、情けなく感じた。別に落ちても教員になれないわけではなく、空きがあれば採用されるのは知っていたが、小学生のころから教員になると一途に想い、願い続けた夢は、私のポンコツなミスにより一気に蒸発してしまった。これが噂の燃え尽き症候群だったのかもしれない。

 

 

さてさて、就職する気もない、しやりたいことも無くなったところでどうしようか考えていたところに、また「フランス」の4文字が思い浮かぶ。とりあえず土地勘もあるし傷心旅行(笑)と称してまた行ってみようと考え、いつも使っているスカイスキャナーで航空券を探していると、良い時期に重なったのか往復3万4000円という誰がどう見ても破格なチケットを見つけた。すぐに購入して10月1日に羽田空港へ向かった。駅や空港には真っ黒のスーツを着た就活生が多かったのをよく覚えている。卒業後のやることが決まり、着実に地に足をつけ内定式へ向かっているのであろう同い年の人達を横目に、私はまた一人でフランスへ向かった。

 

 

今回の旅は前回と少し違う。同じ高校の友人Aがバックパッカーで世界一周をしているところで、私と彼のフランス滞在期間が重なっていることが分かり、一緒にフランス観光をしようと約束をしていた。無事にパリ市内で合流し、観光の手始めに高速鉄道列車のRERに乗り、パリ郊外にあるヴェルサイユ宮殿へ向かった。宮殿の中はたくさんの照明、家具、ただの椅子でさえ金ぴかに、何ともまぁ立派に作られていて、だだっ広い天井には某有名イタリアンファミレス「サイゼリヤ」の店内の壁紙のような天使たちの絵が描かれているのだが、それとこれとはまた違う。(某イタリアンファミレスの壁紙は、ラファエロボッティチェリなどのイタリア出身の画家の作品が多いらしい。)

 

帰りもまた同じ列車に乗り、二人でパリの喧騒から離れた、また一味違うパリ郊外の田園が遠くまで見える長閑な風景を眺めながら自分たちの宿へ向かっていた。日が暮れていき、車窓からは風景が見えなくなっていくと同時に電車の明かりで反射された自分の情け無い顔が嫌でも目に入る。ふと、空港へ向かう途中で見た内定式へ向かっているであろう人たちを思い出した。私はその先が決まっていないなぁ、なんて考えながら。

 

 

でも、今日一日歩いてきて思ったことがあった。

「フランスに住んでみたいなぁ、あはは。」

と、友人に聞こえているのか分からない声で呟いた。

「住めばいいじゃん。」

と、自由奔放な彼らしい言葉が返ってきたけど、何気なく言った彼の一言が私の背中を押したような気もして、彼の一言が卒業後はフランスに住もうと決意させた。

 

「住めばいいじゃん。」と言い放っただけの無責任な言葉は彼にしか言えなかったと思ってる。もし、それが他の人だったとしたら「なんで?」が最初の感想だと思うし、もし私が何か言葉を返すとしても「なんで?」と、同じことを言うと思う。もし彼のその一言が無ければ私は今頃、「フランスに住むなんて…ばかばかしい。」と無かったことにし、そのままいつの日か小学校教員になって数年、体力もやる気もある若手教師ということで高学年を担任し、華々しく6年生を卒業させていたかもしれない。そこでまた新しい出会いがあったかもしれない。でも、その日があったお陰で今の私がある。彼の一言によってぐいと背中を押され、やりたいことが見つかったような気がしたことは、その時の私にとって人生を選択する大切な瞬間の一つだったと思う。

 

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ルーヴル美術館前。ここで出会ったナンパ詐欺師のアランという男の話はまた後日。