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〜ぶつくさと考える毎日〜

特別支援教育とインクルーシブ教育

インクルーシブ教育とは、簡単に言ってしまえば「障害がある子もない子も全員一緒に平等に教育を受けようよ!」ということ。教育の方針に関しては、大体は全国で統一されているものの、やることや考えなどは自治体によって大きく変わる。例えば、横浜や大阪なんかは東京よりもこのインクルーシブ教育に力を入れていて、通常学級に自閉症や知的障害、ダウン症と診断された子がクラスに入り、みんなと同じ教室、同じ空間で学校生活を過ごす。私は横浜育ちなので、今思えばクラスの中になかなかスムーズに話せない子がいたなとか、すぐに離席してしまうような落ち着きがない、注意欠陥多動性症候群の子がいたなとか、物をよく無くしたり、整理整頓が苦手で机の周りはいつも汚かった子がいたなとか、特別支援を専門に勉強してきただけあって自分の小学生時代を振りかえることが多い。当然、勉強してきただけなので現場の実態なども分からず、「通常学級に障害を持つ子が一緒に学び、みんなが協力し合って生活するのは素敵なことだ。」くらいにしか考えていなかった。東京と横浜の特別支援は大きく違っていることを聞いたときは、東京は特別支援の子を通常学級から離して教育するなんて、ひどいなぁ。としか思っていなかった。

 

私はとある都道府県の特別支援学級の担任になり、知的障害を持つ子たちと一緒に学校生活を過ごしてきたことがある。そもそも、その地区には全学校に特別支援学級があるのではなく、場所は限られている。特別支援学級は「自閉症・情緒障害特別支援学級」「知的固定学級」の2つの種類の学級が存在し、その子の課題に応じて所属する学級が決まる。「自閉症・情緒障害特別支援学級」とは、知的な遅れが無く、意思疎通や対人関係に課題がある子が在籍する学級で、どのような子が所属するのか簡単に言うと、「勉強はできるけど、人とのコミュニケーションがうまくいかないよ。」ということ。知的固定学級とは、子供の知的発達に遅れが見られる子が所属し、「勉強が難しく、個別の手厚いサポートで自分の「できる」を増やしていきたいよ。」というイメージである。

 

そもそも、いつ特別支援学級だの通常級だの判断されるのかというと、小学校に上がる子(5,6歳の子)が受ける就学児健診で、その子にとって通常学級、または特別支援学級がいいのか、子どもたち全員が知能検査を受けた結果から、特別支援学級の担任や管理職と相談して決める。ただ、知能検査の結果から特別支援学級の判定が出ても拒絶する保護者は非常に多く、最終的には保護者の意向が最優先されるので、1,2年生の頃は通常級で過ごすことが多い。2年生の学習で漢字や算数の学習内容が大幅にレベルアップするので、そこで大きく差が開いていき、3年生頃になると知的能力の限界を迎え、3年生の秋頃に特別支援学級へ移籍するパターンも少なくはない。もし、1年生から特別支援学級に在籍していれば、着実にできることが増え、自尊心を保てているだろう子が、3年生頃まですっと通常学級にいると周りと自分の違いに気付き始める子も増え、日々の積み重ねで「僕はできないんだ。」と、自信を無くしてしまう子も多くなる。なので、周りの大人による適切な判断が本当に本当に必要。

 

 

現在、「情緒学級」はどんどん数が少なくなってきている。それは、担任と子どもたちの負担がとてつもなく大きく、学級を保つのが困難になってきているから。「情緒学級」に所属する子は説明した通り、「対人関係に課題がある子」が集まるクラスなので、そのような子たちが集まった教室はどのようなクラスになるのかというと、毎日のように些細なことで殴り合い、噛み付くような喧嘩があちこちで勃発したと思ったら、首に縄を巻いて死のうとする子や、土を食べ始める子、椅子や机を投げて物を壊し、泣き叫び、暴れ、子供も大人も生傷が絶えないようなクラス...そんなクラスに保護者も所属させたいと思わないし、担任を持ちたいと思う先生は限りなく少ない。私はそんな「情緒学級」の担任になったことがある。

 

私が担任をしたのは、正確には「知的固定学級」なのだが、先ほど書いたように「情緒学級」は年々少なくなってきている。だから、情緒に課題がある子は行き場が無くなり、「知的固定学級」に所属することになる。そこで起こることは、情緒に課題がある子が知的に課題がある子をいいように利用し、子供の中の世界で小さな支配が始まる。例えば、ボールを取りに行くことが面倒くさいと思う情緒の子が、知的の子に持ってこさせたり、自分が好きな給食のおかずを知的の子から「交換しよう。」と自分の苦手なおかずと交換させたり、情緒の子が何か悪いことをしてしまった時に、知的の子に向かって「この子がやったんだ!」と嘘をついたりすることがある。

 

情緒と知的、それぞれに課題がある子を一緒にしてしまうとそんなデメリットがある。なので、私が持った学級は、正式には「知的固定学級」となっているものの、クラス分けでは子どもの課題や相性、性質、性格、全てを総合的に判断して分け、約40人いる知的固定学級の中でも、情緒に課題がある子たちで固められた「知的固定学級の中の情緒学級」が私の担当だった。特別支援学級の定員は8人までと全国で決まっているが、8人でも十分に多いので大体5人前後でクラス分けが行われる。

 

情緒に課題がある子は勉強ができる子も多く、通常級でみんなと一緒に勉強したいと願う子供も少なくはない。だけど、通常学級だと人との距離感が難しかったり、空気を読めない行動をしてしまうことが多く、トラブルも多くなる。その子たちに適した場が今の日本には無いように思える。知的IQの高い障害児だけを集めた私立の特別支援学校を知っているが、学費は私立大学並みに高く、どうもビジネス臭さを感じたのは否めない...。

 

この数年間、子供たちと向き合っていく中で想うことがいくつかあった。

 

インクルーシブ教育とは何だったのか。特別支援学級に所属する子の最終的な目標は「自立」である。着替えや身支度、整理・整頓などの生活全般を自分でやっていく力、自分で分からないことや出来ないことは周りの人に聞いて助けを求めたり、時間や手順、ルールを理解して係活動や当番などの与えられた仕事を最後までやっていく力をつけていき、できたこと一つ一つに自信を持ってもらうこと。なぜなら、助けてくれる身近な大人、つまり子供の両親は、当然だが子供より早く先に死ぬ。お金があれば代理人などを雇うことができるかもしれないが、全員がそういうことが出来るわけではない。だから、自分で生きていく力を身に付けていくのが大切で最優先なのだと私は思う。

 

自分のことがままならないまま、通常学級にポンと置かれてしまってはどうだろう。整理整頓が苦手でロッカーや机、その周りはいつも汚れ、給食を綺麗に食べることが難しい子は、まだ障害児などと判断がつかない子たちからするとどう見えてしまうのか。「汚い子」と、スタンプを押されてしまうかもしれない。運動が苦手な子は体育の中で振り分けられたチームの中でどのような扱いを受けるのだろうか。優しい子がいれば、フォローすることが出来るかもしれないが、幼い子供たちの心理は「勝利したい。」のであって、それがチームの最優先になってしまうことが多い。全体の授業についていけず、学習内容が何もわからないま椅子の上でぼーっとする時間は、その子にとって本当に必要な時間なのだろうか。その時間だけでも、その子に適したプリントや課題を渡してあげたいと思うし、できることを着実にしていくことで自信をつけさせていきたい。その学級担任が個別に用意し、面倒を見ることもできないことではないが、熟練の経験と知識で成り立つので多くの担任は全てが中途半端になってしまう。

 

 

もちろん、インクルーシブ教育にも大切な面はある。障害を持つ子がクラスにいることで、世の中には得意・不得意が人それぞれ違うように、個性を持った子がいるのだと考えさせることができる。そこで、協力してあげようとする気持ちが生まれてくる。でも、私が過ごしてきた小学生時代に、「インクルーシブ教育」の名のもとでお世話好き、或いはお世話が得意な子にダウン症の子を任せっぱなしにしてしまうことがあった。班や行動なども全てその女の子と一緒にさせ、女の子のかなりの負担になり、問題になったことがある。もちろん当時の担任や、その担任に助けを差し伸べなかった周りの教員たちに落ち度がある。女の子にとっては協力する力はついたかもしれないが、協力するのはその子だけでよかったのか、クラス全体で助け合いができなかったのか。安易にインクルーシブ教育の良いところだけを推し進めてしまうと、良くない結果になってしまうこともある。障害を持つ子、持たない子が自分の力を最大限発揮できる場を作ってあげ、全員が平等に、楽しい学校生活を作っていくには、学校全体が正しい判断をし、担任はよく考え、責任持って学級経営をしていかなければならないと思っているので、私は安直にインクルーシブ教育を進めたいとは考えられない。

 

通常学級の担任が全てを引き受けることもできるが、やはり膨大な時間と業務で担任自身が潰れてしまうことも少なくはない。現に私の残業時間は月80時間は超えていたし、土日も行かなければならなかったこともあるので19連勤の経験がある。もちろん、残業代は一銭も出ない。いくら子供たちが大切だからといって自分の人生がボロボロになるまで日々を犠牲にしなくてはならないのかというと、そこまでしたいとも思わない。何故なら、私自身も自分の人生は大切にしていきたいから。

 

何はともあれ、教師や周りの大人は子供たちが幸せになることを願い、そのために、世界をまだ知らない子どもたちのためにできる限りの教育と環境、子どもたちそれぞれが自分の「できる」を見つけ、自信を持って楽しく生きていくために教師は努力する。私はその子供たちそれぞれの人生の一部に関わっていくこと、そして、小学生から願い続けた教師になれたことを凄く嬉しく思う。色々な子供たちに出会えること、子供たちの「できる。」が日毎に増して目に見え実感できる場所、それが学校…。だから、教師って面白い。

 

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遠足の下見で桜をパシャリ。晴天が気持ちいい。